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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第1節 雨の予感 [3]




「田代さん、本当は中学から唐渓に通うはずだったって聞いた事があったんだけれど、本当かしら? どうして辞めちゃったのかしらね? 受験もしなかったって聞いたんだけれど」
 唐渓に通ってもおかしくはない生徒だった。今の母が好みそうな人間だ。
「聡、あなたひょっとして田代さんとお付き合いをしているの?」
「は? はぁっ! っんなワケねぇだろっ!」
「あらそう?」
「なんで俺があんな腰抜け女と」
「まぁ、そんな言い方をするんじゃありません。見た目も清楚で大迫さんなんかよりも可愛らしいじゃない。お母さん、田代さんみたいな子だったら賛成よ」
 険しく睨みつけてくる息子の視線を、母はシレっと受け止める。
「あなた、もう少し女性を見る目を養った方がいいわ。損をするのはあなたよ」
 なんでこんなところで損得が出てくるんだよ。
 グッと奥歯を噛み締めて背を向ける息子に、母は悪びれもせずに言った。
「そうそう、結局何の用だったのかはわからなかったから、またいらっしゃいって言っておいたわ」
 二度と来るな。
「でもまた今日みたいな擦れ違いになるといけないから、今度は連絡してからの方がいいと思って、あなたの携帯の番号を教えておいたの」
「はぁ? 何勝手な事してんだよっ!」
 三段上ったところで振り返る。なかなか二階にまでは到達できない。
「ふざけんなっ! 他人の番号勝手にバラすなんて最低だぞ」
「その携帯の料金、誰が払ってると思ってるの?」
 卑怯だっ!
 下り戻って襟元にでも掴みかかりそうになった。だが、玄関の音に思いとどまった。
 帰ってきた緩は、目の前の二人の様子で瞬時に事を察知した。
 また痴話喧嘩? くだらない。
 瞳にありありと浮かぶ侮蔑の色。
 聡は何も言わずに身を反転させると、今度こそ駆け上がり、自室へと飛び込んだ。



 田代里奈が何の用で自分のところに来たのかはわからない。だが、母に媚を売った事には間違いない。
 俺をおとすためにお袋を懐柔しようってワケか? 田代のクセにずいぶんと姑息な手を使いやがる。いや、アイツは実はそういうヤツだったのかもしれない。気弱そうに見せかけて、実は小汚いヤツなのかも。
 そうだ、だから美鶴だってハメられて。
 改札を抜けてからはほとんど走り続けている。美鶴のマンションはもうすぐだ。里奈が身を寄せている唐草ハウスという施設もここからは近い。訪ねて行って里奈に問い詰めようと思えばできない事はない。事実、この数日、どうやって里奈に報復してやろうかとあれこれ考えていた。だが今、聡が全力で走るのは、その為ではない。里奈の為にこんなに体力を使うなんて、もったいなくってできるワケがない。それよりももっと重要な事実を確かめたい。
 瑠駆真が、美鶴のマンションで居候を始めた。二人は一つ屋根の下で暮らしている。
 嘘だ。
 その話を、事もあろうに瑠駆真本人から聞かされた時には、言われた意味がわからずしばらくポカンと口を開けてしまった。
「聞こえなかった? もう一度言おうか?」
 裏庭で、瑠駆真はまるで何でもない事のように淡々と報告する。そう、それはただの報告だ。まるで、緊張感のなくなってしまった二年目の営業マンが、成果の無かったその日の外回りを少し面倒くさそうに上司に報告する時のようだ。
「僕はなんとしても美鶴と霞流を引き離したい。だから、彼女が今後一切繁華街へは足を向けないように、彼女を監視する事にした。だから」
「ちょっと待て」
 激しい語気が強引に遮る。
「だから美鶴の家に居候? それって、同居?」
「そうなるね」
「二人で?」
「美鶴のお母さんも居る」
「おばさんって、でも」
 混乱と興奮で舌が上手くまわらない。
 美鶴の母親は繁華街で夜の仕事をしている。深夜か早朝にでもならなければ帰ってはこない。なぜだか昼過ぎくらいから出掛けてしまう事も多い。聡が部屋を訪ねると、必ずとまでは言わずとも不在である事が多い。という事は。
「お前ら、二人っきり」
 口にした途端、鳥肌が全身を覆った。携帯の写真がフラッシュした。
 抱き合って、キスをして。
「お前ら」
 全身を滾らせる相手に、だが瑠駆真は平然と、いや、少し冷めた表情で嘆息した。
「そういう想像したくなる気持ちもわからないでもないけどね。なにしろ、君には前科があるワケだし」
「前科?」
「そうさ。美鶴の部屋に押し入って、押し倒して」
 言うなり、今度は瑠駆真の全身が熱くなる。
 朝なのにあまり明るいとは言えなかった、陽当たりの良いはずのマンションのリビングで、ソファーの上で彼は美鶴に。
 両手を握りしめる聡。奥歯を噛み締める瑠駆真。まるで二人の周囲だけ現実から切り離されたかのような異空間。そこは、引火性の高いガスでも充満した小部屋のようだ。何がきっかけで爆発するかわからない。そんな雰囲気を、瑠駆真が静かに押し退ける。
「どんな想像をしてくれてもかまわないさ。何なら君も参加してくれてかまわない」
「参加?」
「そうさ。僕は別に、どうしても美鶴と二人っきりになりたくって彼女の家に居候をするワケじゃない。僕はそんな下品な人間じゃない」
 言って、クルリと背を向ける。
「ただ僕は、これ以上我慢がならないだけだ」
「何がだ?」
「毎夜、今頃美鶴は繁華街へ出かけているのだろうか、霞流に(たぶら)かされてはいないだろうか、そんな憂慮に(さいな)まれながら朝を待つだなんて、そんな事は僕にはもうできない」
 語気が荒れる。
「だから美鶴を見張るのか?」
「見張る? そんなつもりはないさ」
 だがそこで、ふと唇に指を当てる。
「でも、まぁいいか。見張りだなんて思われたっていい。それでもかまわない」
 そうだ、もう何かにかまっている余裕なんて無い。彼女を監視すると言ったのは瑠駆真本人ではないか。監視と見張りと、二つの間に何の違いがあるというのだ。言葉の違いなどどうでもいい。ボケっとしていたら、夏休みなんてあっと言う間にやってくる。
「とにかく僕は、霞流から美鶴を守る。僕のやり方が気に入らないと言うのなら、どうぞ君もご一緒に」
 向けられた背中に若葉の影がユラユラと流れた。少し湿った緑の風は、聡の熱を冷ましてくれそうにはなかった。



 どうぞご一緒に。そう誘われた。だから俺は行ってやる。







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